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精読と多読(マックス・ウェーバーとの出会い)

2013/10/21(月) 日々の出来事本の感想

以前、精読と多度についてブログを書いた際、私の精読的傾向は、法律の勉強によるということを書きましたが、実は、その傾向は、大学1年の時の教養課程の時の勉強の時から始まったかもしれません。

大学に入って、はじめは、法律以外の勉強をしようと思い、社会科学の領域で有名なマックス・ウェーバーという学者の本を読み始めました。確か岩波新書で出ていた大塚久雄先生の「社会科学の方法」という本が大変おもしろく、こんなにおもしろい学問があるのかと思い、そこで紹介されていたマックス・ウェーバーに興味を持ったのです。そして、早速、彼の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫、梶山力・大塚久雄訳)を読み始めたのですが、そこで衝撃的なことを経験しました。それは、上記岩波新書の解説本では、あんなに面白かったウェーバーが、実際、彼の本で読んでみると(翻訳ですが)、面白くないどころか、その内容が全く理解できないという事態になったのです。そこから、その本を理解するための悪戦苦闘が始まり、結局、その一年だけでも、3,4回は読んだのではないかと思います。

そうして読み進む内に、著者(ウェーバー)の緻密な論の進め方が徐々に理解できるようになり、そうすると俄然、解説本より、彼自身の表現で読んでいった方が遙かに面白くなってきたのです。そうなってくると早いもので、彼の「社会学の根本概念」「理解社会学のカテゴリー」「社会科学方法論」「ロッシャーとクニース」その他、政治学、官僚制に関する論考を次々と読み進んでいき、結局、解説本は、原著のエキスを相当薄めた代物であり、原著の持つ魅力を持ち得ないことが分かってきたのです。(上記解説本は、まぎれもなく、超一流の解説本ですが、解説という本の目的から致し方ないことであります。)

 こんなことを書きましたのも、実は、今日、私の所属する宝塚ロータリークラブで、職業のことを語り合う機会があり、「職業としてのピアニスト」というフレーズを用いられた方がおり、マックス・ウェーバーの「職業としての政治」や「職業としての学問」という本を思い出したからです。

 若いときの読書と勉強を思い出した一日でした。

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