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「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)を読んで(その2)

2014/11/26(水) 本の感想

この小説は、読み出すと面白すぎて、読むのがもったいなくなり、読むのを止めてしまうくらいであるというようなことを以前書きましたが、これには、単にもったいないと言うより、もう少し言葉を使って説明した方がいいような面もあるように思います。それは、例えば、変速機付きの自転車に乗って最初軽いギアからこぎ始めながらある程度スピードが出てくるとギアを重くし、その重いギアにした瞬間はかなり抵抗が強くて力がいるのに、段々加速され、さらにギアを上げていくと終いには相当のスピードになっていき、爽快であると同時にスピードが出すぎて怖くなってくる感じになってくるのと似ており、これ以上は、読まない方がいいのかなという感じがしてくるのでした。あるいは、また、読んでいくと何か大きな秘密を聞かされるような感じになり、そんな秘密は聞かされない方がいいのかなと思って、読むのを中断するような感じでもありました。

今回この小説を読む中で2回目の中断が生じたのは、ちょうどイワンがアリョーシャに大審問官の詩を語る前の所でした。二人が普通の会話を始めながら徐々にイワンがその思想を語り出し、ただならぬ気配が感じられ始めてくると、何かとんでもないことが語られそうな気がして中断してしまったのでした。これから何が語られるんだろうと、そっと後の方の頁をめくってみるとちょうど大審問官の前のところでした。この詩がこの小説のこんなにはじめの方に書いてあったのかとちょっと驚きました。

そして、しばらくの(かなり長期間の)中断を経て、大審問官の前当たりから再開すると、後は、第3部の終了(裁判の前の所まで)ほぼ一気に読むことが出来ました。

この小説は本来2巻構成で予定されており、現在のこの小説は、前半の1巻に過ぎないとされていますが、2巻に対する読者の想像力も刺激する内容になっています。ミロのヴィーナスは腕の部分を欠くことにより、見る人の想像力を刺激し続けていくのと同様に、この小説も未完成とされることにより、いっそう読者を刺激し続ける永遠のエネルギーを持つ作品になっているように思います。未完成であることによってさらにその完成度を高めた芸術作品と言えるかも知れません。

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