fukuma blog

ファウストゥス博士を読んで(その4)

2014/09/02(火) 日々の出来事本の感想

トーマス・マンは徹頭徹尾、理性の人でありますが、彼がニーチェに従って造形した主人公アードリアーン・レーヴァーキューンについて、「ファウストゥス博士」の自己解説ともいうべき「『ファウストゥス博士』の成立」において、彼は、これまで創造してきたトーマス・ブデンブローク、ハンス・カストロプ、ヨゼフなどをも、恐らくハノー・ブデンブロークは別としながらも、このアードリアーンほどには決して愛さなかったということを友人に告白したことがあり,「私は真実を語った」と述べています。

彼は、高慢な生徒時代以来のアードリアーンに「惚れ込み」、彼の絶望した心などを「溺愛」していたと述べています。このような素朴な告白は常に抑制をきかせながら緻密に描写を重ねていくトーマス・マンの文章としては極めて例外的であり、滅多にお目にかかれない表現のように思えるのです。

そして、彼は小説中、アードリアーンの外貌をほとんど描写していないのですが、その点について、彼は、具体的な姿を表現することはいともたやすいことであったが、「外側を活かすことにはたちまち霊的な出来事とその象徴的価値や代表性を引き下げて平凡化するという危険が伴った」とし、「同一人物であるという秘密を隠さなければならない二人の主役」は、外貌を絵のように描くわけにはいかなかったと述べています。

ここでいう「二人の主役」とはおそらくアードリアーンとニーチェでありましょう。徹頭徹尾、理性の人であるトーマス・マンのニーチェへの強い傾倒と共鳴が感じられた次第です。

記事一覧|2014年9月

ページトップへ