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トーマス・マンの「ファウストゥス博士」を読んで

2015/08/21(金) 日々の出来事本の感想

数日前、トーマス・マンの「ファウストゥス博士」を読了しましたが、やはりマンの文章力は圧倒的であります。彼は音を文章化することをよくやりますが、この本はアードリアーン・レーヴァーキューンという架空の作曲家の伝記をその友人が書くという体裁をとっており、正に音楽そのものを素材として主題を展開しているものでありました。

彼の文章は、その一行とて私に書けるものではなく(当然のことですが)、霊感に導かれているような文章と言うべきものであり、その言語駆使能力は世界の最高峰に属すると言ってもよいのではないかと思うのですがどうでしょうか。毎ページ、その表現の深さと内容にはほとほと感心させられます。例えば次のような文章がありました。

「聴かれず、見られず、感じられず、出来ることなら感性の、そして情念の彼岸で、純粋に精神的な領域で、理解され観照されることこそ、音楽の最も深い願望なのです。しかし、感性の世界に結びついている以上、音楽は最も激しい、いや、蠱惑(こわく)的ですらある感覚化を目指さざるを得ないのです。おのれの意志に反して、逸楽の柔らかな腕を愚者の頸に巻き付けるクンドリなのです。」

いやはやすごいとしか言いようのない文章です(私にとって)。私は芸術家ではなく法律家でありますから、毎日法律と事実・証拠に取り組み、それを文章化する仕事をしています。そこには、音楽や芸術のような華やかさはなく、地味な世界ではありますが、それでも私を刺激して止まない世界であります。マンのような文章を書くことはできず、その必要もないでしょうが、長編小説を書き続けるマンのような堅実な仕事をしたいものだと思った次第です。

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