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ファウストゥス博士を読んで(その3)

2014/08/28(木) 日々の出来事本の感想

ニーチェと言えば、極北の世界に住む孤高の哲学者という感じがするのですが、そんな彼も孤立することが好きだったわけではなく、ただ孤立することを恐れなかったということではないかと思います。彼には困難をあえて引き受けるだけの能力とそれを克服しうるとする自負心、さらにたとえ他の理解が得られなくても自己の道を進んでゆく勇気ないしそのようなある種の精神的傾向があったように思います。しかし、いくら孤立を自ら引き受け、孤独に慣れていったとしても、彼の内面を洞察し理解する人間がいたとしたら、彼も心底喜んだのではないかと思います(もちろんそんな喜びは表には出さなかったでしょうが)。ファウストゥス博士に、こんな文章がありました。

アードリアーンを音楽に誘ったことほど、と彼は言った、後悔する恐れのないものはない。確かに、これほど自制心の強い人間、陳腐なもの俗受けするものに対して、これほど潔癖な人間は、外面的にも内面的にも、困難な道を歩まねばならないだろう。しかし、この場合にはそれでいいのだ、何故なら他の領域ではあまりの安易さに死ぬほど退屈してしまう人間に困難を課することが出来るのは芸術だけなのだから。(円子修平訳)

ニーチェに読んであげたくなるような文章であります。因みに彼にはこんな文章があります。

Not when truth is dirty, but when it is shallow the seeker of knowledge steps reluctantly into its water.(認識者が真理の水に入るのを厭うのは、その水が汚穢な時ではない。浅薄な時である。)(英文:Adrian Del 訳、日本文:竹山道雄訳)

 

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